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秋田の歴史や文化について紹介します。

秋田県

通庵佐竹公館址碑The Monument for SATAKE Yoshishige.

碑文

通庵佐竹公館址碑

釈文

公、諱義重、佐竹氏新羅三郎源義光二十世後胤。考諱義昭、妣岩城氏。永禄五年襲考、任常陸介、為太田城主。英武絶倫、并呑近隣諸城、西禦北条氏、北抗伊達氏、大小百余戦、未嘗取敗、遂覇一方。天正十六年、譲職子義宣而老焉。十八年、豊臣氏之滅北条氏也、以公為常陸大都督、封常野二十一万余貫之地。公請而授之義宣。慶長七年、徳川氏之移義宣封於出羽也、公嘉同州仙北郡六郷邑土肥水冽、館于※1此為菟裘。時兵備未全旧邑主小野寺氏遺党煽土寇来襲。事出草卒防禦頗難。而邑民及緇徒争起奮闘走之。公因愛邑民・忠僕。整市街移寺院図殷富。而人煙月稠年密、民深徳之居十年卒。実十七年四月十九日也。享年六十六。諡曰通庵。距今三百年、邑民追慕不衰、欲樹碑於館址比甘棠、請余銘、銘曰、
「赫赫武功、実一方覇、老後余徳、一郷嚮化。遺沢洋洋、千秋弗罷。爰建豊碑、遠魂維廷※2、花木環植、爛如錦■(巾へんに白)。勿翦勿伐。先公所舎。」
  侍従長兼内大臣従一位大勲位公爵  徳大寺実則題額
  東宮侍講従三位勲二※3等文学博士  三島毅撰
         正五位       日下部東作書
  明治四十四年辛亥四月       井亀泉刻

※1…『六郷町史』文化編P.679では「干」。実見したところ置き字の「于」。
※2…『六郷町史』文化編P.680では「連」。実見したところ「廷」の異体字と思われる。
※3…『六郷町史』文化編P.680では「勲三等」。実見したところ「勲二等」。
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読み下し

公、諱(いみな)は義重、佐竹氏、新羅三郎源義光二十世の後胤。考、諱は義昭、妣は岩城氏。永禄五年考を襲ぎ、常陸介に任ぜられ、太田城主と為る。英武は絶倫にして、近隣の諸城を并呑し、西のかたは北条氏を禦(ふせ)ぎ、北のかたは伊達氏に抗い、大小百余戦、未だ嘗て敗(ま)けを取らず、覇を一方に遂ぐ。天正十六年、職を子義宣に譲りて老す。十八年、豊臣氏の北条氏を滅ぼすや、公を以て常陸大都督と為し、常野二十一万余貫の地に封ず。公、請いて之を義宣に授く。慶長七年、徳川氏の義宣を移して出羽に封ずるや、公は同州仙北郡六郷邑の土の肥え水の冽(きよ)らかなるを嘉(よみ)して、此(ここ)に館(やど)り、菟裘(ときゅう)と為す。時に兵備未だ全わらざるに旧邑主小野寺氏の遺党、土寇を煽りて来襲す。事の出ずること草卒(そうそつ)なれば、防禦(ぼうぎょ)頗(すこぶ)る難し。而れども邑民及び緇徒(しと)、争いて起ち、奮闘して之を走らす。公の邑民・忠僕を愛するに因る。市街を整えて寺院を移し殷富を図る。而(しか)して人煙は月稠年密、民の深徳に之(これ)居ること十年にして卒す。実に十七年四月十九日なり。享年六十六。諡(おくりな)を通庵と曰う。今を距ること三百年、邑民の追慕は衰えず、碑を館址に樹てて甘棠(かんとう)に比(なずら)えんと欲し、余に銘を請えば、銘じて曰く、
「赫赫(かっかく)たる武功は、一方に覇を実(み)たし、老後の余徳は、一郷嚮化(きょうか)す。遺沢は洋洋として千秋罷まず。爰に豊碑を建てて、遠魂をば廷(にわ)に維(つな)ぎ、花木をば環らし植えて、爛(あざ)やかなること錦■(きんばつ)の如し。翦(き)る勿(なか)れ伐(き)る勿(なか)れ。先公の舎(やど)る所ぞ」と。


現代語訳

公は諱(いみな)を義重と言い、佐竹氏を名乗った。新羅三郎源義光から数えて二十代目の子孫である。父は、諱を義昭と言い、母は岩城氏の出であった。永禄五年、父の後を継ぎ、常陸介に任じられ、太田城主となった。優れた武勇は並ぶ者が無く、近隣にある諸城を支配下に取り込み、西は北条氏の侵攻を防ぎ、北は伊達氏に抗戦して、大小あわせて百回以上戦ったが、これまで一度も負けを知らず、北関東一円に覇を唱えた。天正十六年、家督を息子義宣に譲って隠居した。天正十八年、豊臣氏が北条氏を滅ぼと、公を常陸大都督とし、常陸・下野二十一万余貫の地に封じた。公は願い出てこれを義宣に授けた。慶長七年、徳川氏が義宣を移して出羽に封ずると、公は、同州仙北郡六郷村が土は肥えていて、水も清らかであるのを気に入り、この地に住むことを決め、隠居の地とした。時あたかも、武器・兵員が備わっていないうちに、旧領主小野寺氏の残党が、土民の一揆を扇動して襲いかかってきた。事態の出来が突然だったので、容易に防御しきれない。しかし、領民と僧侶が先を競って立ち上がり、奮戦してこれを敗走させた。公が領民や忠実な家来を大切にしていたからである。また、市街を整えて寺院を移し富貴を図った。そうして人口は年月を経るごとに増加し、領民が深い恩徳を受けること十年で卒去した。実に慶長十七年四月十九日のことである。享年六十六。諡(おくりな)を通庵と言う。今から三百年も昔のことというのに、村民の追慕は衰えず、碑を館の跡に建てて、召(しょう)公(こう)■(せき)の徳を讃えたという甘棠(かんとう)の詩になぞらえようとし、私に銘文を頼んできたので、このように記そう。
「はなばなしい武功は、北関東一円に覇名を轟かせ、老後の恩恵は、一村を敬服させた。後世まで残る恩沢は限りなく、千年にもわたって続く。そこで立派な石碑を建てて、はるか遠くの魂とこの広場を結び、花と木とをまわりに植えて、まるで錦の抹額(まっこう)のように輝かせている。この花を摘み取ったり、この木を切り出したりしないでおくれ。先公が宿っているところなのだから」と。


注釈

1後胤…数代の後の子。子孫。後裔(こうえい)。来裔(らいえい)。すえ。[日本国語大辞典]
2考…ちち、亡父をいう。[字通]
3英武…武勇にすぐれていること。また、そのさま。[日本国語大辞典]
4一方…一地方。[大漢和辞典]
5菟裘…(中国、魯の隠公が隠棲の地と定めた地名から)官を辞して隠棲する地。老いて世を退き余生を送る所。菟裘の地。[日本国語大辞典]
6土寇…百姓の一揆。土民の暴動。[日本国語大辞典]
7草卒…急なこと。突然なこと。また、そのさま。[日本国語大辞典]
8緇徒…(「緇」は墨染めの衣の意)僧侶(そうりょ)の異称。[日本国語大辞典]
9殷富…富み栄えること。豊かなこと。[日本国語大辞典]
10人煙…人家のかまどに立つけむり。転じて、人の住んでいるけはい。[日本国語大辞典]
11甘棠… →【かんとう の 詠(えい)】(中国、周の宰相召公■(せき)が甘棠樹の下で民の訴訟を聞き、公平に裁断したので、民が召公の徳を慕い甘棠の詩(「詩経‐召南」所収)をつくりうたったという故事から)人々が為政者の徳をたたえること。[日本国語大辞典]
12赫赫…勢威、功績、声望などがりっぱで目立つさま。[日本国語大辞典]
13嚮化…帰化する。[字通]
14錦■(ばつ)…錦の抹額(まつこう)。[大漢和辞典]


解説

概要

 通庵佐竹公館址碑(つうあんさたけこうかんしひ)は、秋田県仙北郡美郷町の六郷城本丸跡にあります。六郷学友会では明治31年(1898)に計画をはじめており、碑文が書かれたのは、三島中洲の官職から明治41年(1908)〜明治45年(1912)の間と思われます。明治44年(1911)9月19日には佐竹義重公没後300年祭を挙行しました。その後、ついに記念碑は完成し、大正7年(1918)9月23日、佐竹侯爵家からも人を招いて除幕式を行っています。内容は上の通り佐竹義重の略歴紹介と顕彰です。

■場所:秋田県仙北郡美郷町六郷字古館(こだて)


題額・撰・書・刻の人物

 碑文には大変高名な人物が名を連ねています。いずれも当代一流の人物で、これだけの人物が揃っていることに感銘を受けます。題額・撰文は六郷の医師・高橋軍平の斡旋によるものであったそうです。

■題額:徳大寺 実則(とくだいじ さねのり)
 明治天皇の侍従長。西園寺公望(さいおんじきんもち)の兄。天保10年(1839)12月6日、京都生まれ。王政復古後の明治元年(1868)、参与となったのを皮切りに新政府の要職を歴任。明治4年(1871)7月、宮内省出仕を命ぜられ、8月に侍従長となる。明治天皇の信任厚く、それ以降、侍従長が廃止されていた時期(1877年8月〜1884年3月)を除いて、明治天皇の崩御まで侍従長として仕えた。碑文には「侍従長兼内大臣従一位大勲位公爵」とあるが、内大臣を兼ねたのは、三条実美没後の明治24年(1891)2月から。それ以外は明治32年(1899)12月従一位、明治39年(1906)4月大勲位、明治44年(1911)4月公爵にそれぞれ任じられている。明治天皇崩御後に辞職し、大正8年(1919)6月4日死去。
 佐竹宗家第33代当主佐竹義生(さたけ よしなり)の妻子は徳大寺実則の娘なので、その縁もあったのでしょう。
※題額は一番上の「通庵佐竹公館址碑」の部分です。

■撰者:三島 毅(みしま つよし)[三島 中洲(みしま ちゅうしゅう)]
幕末〜大正時代の漢学者。備中国窪屋郡中島村(岡山県倉敷市)の出身。天保元年(1830)12月9日生まれ。山田方谷に師事し、後に江戸に出て昌平校で学んだ。安政6年(1859)、備中松山藩に仕え、藩校有終館の学頭となる。明治5年(1872)には司法官となり、裁判所長・大審院判事を歴任。明治10年(1877)に一番町(千代田区三番町)に漢学塾二松学舎(現在の二松学舎大学)を創設した。その後、東京高等師範学校、東京帝国大学古典科の教授として教壇に立ち、明治29年(1896)東宮御用掛、ついで東宮侍講、宮中顧問官に任ぜられた。文学博士。勲一等。大正8年(1919)5月12日死去。
※撰とは撰文のことで、文章を書くことです。

■書家:日下部 東作(くさかべ とうさく)[日下部 鳴鶴(くさかべ めいかく)]
明治・大正時代の書家。明治書道界の第一人者。天保9年(1838)8月18日、江戸で生まれる。のちに養子となって日下部氏を継いだ。明治維新後の明治2年(1869)東京に出ると、大久保利通の信任を得て、太政官の少書記・大書記を歴任する。明治12年(1879)、前年の紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺されたのを契機に辞職し、42歳で書家として独立する。楊守敬(ようしゅけい)が来日すると、新しい書法を熱心に学んで、書風を大成させ、明治書道界を風靡した。門弟は数百人と言われ、全国各地に碑文が残っている。大正11年(1922)1月27日死去。

■彫刻師:井亀泉(せいきせん)[二代目 酒井 八右衛門(さかい はちえもん)]
明治・大正時代の石匠。井亀泉は酒井八右衛門の屋号で、江戸三大石匠に数えられたという。この井亀泉は二代目酒井八右衛門。二代目は、はじめ池田幾次郎といい、明治初期に初代酒井八右衛門の養子となった。二代目は、最高の職人を集めて、採算度外視の最高の仕事をさせたという。大正7年(1918)、59歳で没。


参考図書・参考文献

【参考図書】
○『国史大辞典』・『日本大百科全書』・『日本国語大辞典』・『日本人名大辞典』・『大漢和辞典』・『字通』
【史料】
○『六郷町史』文化編P.679-680(六郷町、1991)
【文献】
○加藤元信「御碑銘彫刻師、井亀泉・酒井八右衛門について」(『文京ふるさと歴史館だより』第14号所収、2007)http://www.city.bunkyo.lg.jp/rekishikan/column/rekishikandayori_14.pdf
○中西慶爾『日下部鳴鶴伝』(木耳社、1984)
○廣P裕之『刻された書と石の記憶』(武蔵野大学出版会、2012)
○森章二『碑刻』(木耳社、2003)
○六郷町史編纂委員会『鐘はかたり 清水はささやく』(六郷町、2004)P.65, 189
【Webサイト】
○美郷話題新聞「義重公と宝寿院
○有限会社 喜泉 岩城石材店 系統図 http://www.iwakisekizaiten.co.jp/company/

【リンク】
○東北城館魂 http://joukan.sakura.ne.jp/joukan/joukan-file.html


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解説

○佐竹義重の居城であった六郷城跡に建てられた記念碑について解説します。

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